横濱時層地図―ピンポイント紹介
ピンポイント紹介
横浜の地名
文明開化期:明治 14-15年 測図
現代:航空写真(Googleマップ)
横浜という地名の歴史は、室町時代まで遡ることが出来るといわれます。横浜の由来は本牧から山下町にかけて横に長く伸びた砂浜から「横浜」、砂浜の横に作られた村だから「横浜」など諸説ありますが、砂浜が横浜のルーツであることは想像できます。
明治中頃には潮干狩りをする人々で溢れかえっていました。現在は日本を代表するコンテナポートであると共に、商業施設も充実し多くの人が行き交うエリアとして開発がすすみ、砂浜がすっかりなくなってしまいました。しかし、横浜で潮干狩りが出来る唯一の場所となった金沢区の海の公園では、毎年ゴールデンウィークの時期になると大勢の人々が潮干狩りを楽しみに訪れ、浜と共にあったかつての横浜の姿を垣間見ることが出来ます。
- フランス波止場脇で潮干狩りの写真(リンク先:横浜開港資料館)
新横浜
明治のおわり:明治36-39年 測図
バブル期:昭和59-平成2年 修正
新横浜は新幹線が開通する以前、かつてこの地域は横浜市でも有数の水田地帯でした。鶴見川はしばしば氾濫を起こす暴れ川でしたが、一方で肥沃な土も運んできたため、後背湿地一帯は水田で埋めつくされ田園風景が広がっていました。
昭和39(1964)年の新横浜駅開業やその翌年の環状2号線の開通後、交通の結節点としての機能が発達するにつれ、企業や商業施設が集まってきました。横浜アリーナや横浜国際総合競技場、ラーメン博物館といった集客施設も充実し、今ではオフィス街の1つとして臨海部とともに横浜の経済を盛り上げています。
みなとみらい地区
戦後転換期:昭和23-32年 修正
現代:地図(Googleマップ)
横浜ランドマークタワーを中心とするみなとみらい21地区は、かつての三菱重工業横浜造船所の跡地の再開発によって誕生しました。横浜造船所は、明治22(1889)年に横浜船渠として設立され、氷川丸をはじめとする数多くの旅客船や艦船を建造してきました。これらの施設は昭和58(1983)年までに金沢地区へ移転し、跡地に残された2つのドックはともに国の重要文化財の指定を受けました。
現在、1号ドックは日本丸メモリアルパークとして、2号ドックはドックヤードガーデンとして再整備され、週末は多くの人で賑わいをみせています。
戸塚周辺
昭和戦前期:昭和3-14年 修正
バブル期:昭和59-平成2年 修正
東海道本線の戸塚駅から藤沢駅に掛けて、その車窓からいくつもの大型の工場施設を見ることができます。これらの工場は高度経済成長期において、東京都心から外延部への拡大移転、関西企業の首都圏進出などの要因によって、さらに車窓から工場が見えることが宣伝になるとの考えからこの地域に集まってきました。
工場が集積する以前の車窓はどのような風景だったのでしょうか?当時の地図を見ると、丘陵地の谷間に広がる水田や桑畑の中を走っていたことが分かります。近年は工場からマンションやオフィスビルへと土地利用が変化しつつあります。車窓から見える風景も、時代の流れと共に刻々と変わっています。