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種田山頭火"仁王立ち”(自殺未遂)事件の現場 

                                   

【著者プロフィール】

盆子原和哉(ぼんこばら かずや)
ジャーナリスト。2011年まで産経新聞東京本社に勤務し、夕刊フジ報道部長、産経新聞編集局企画担当部長などを務めた。

■はじめに
  「種田山頭火」(本名・種田正一)の名を初耳だという人は少ないであろう。「漂泊の俳人」として知られている。明治15年12月3日に山口県防府市に生まれ、昭和15年10月10日に愛媛県松山市で没するまでの59年に近い生涯のうち、大正末からの15年間を「行乞(ぎょうこつ)」の旅を続けながら、読む人の心に深く沁み入る多くの自由律俳句を残した。「行乞」とは、「僧侶が乞食(こつじき)をして歩くこと」(大辞泉)。要は托鉢である。釈尊が弟子たちに説いた「十二頭陀(ずだ)行」の一つで、貧富を選ばず、軒を連ねる人家の前に順に立ち、食を乞うことをいう。山頭火の行乞とは、どんなものだったのか。
  山頭火が山口県小郡市に結んだ「其中庵」(ごちゅうあん=昭和7年9月~10年12月)時代から親交を結び、没後、その遺稿を整理・編集して『愚を守る』(同16年)、『あの山越えて』(27年)をはじめとする遺稿集を公刊、『俳人山頭火の生涯』(初版は昭和32年アポロン社)など数多くの山頭火関連の著書がある大山澄太(平成6年没)は、このように書く。《行乞は他から見れば山陽、九州あたりでいう「ほいとう」であり、乞食坊主である。彼自身もそれを以って任じていた。しかし彼の本心は徒歩禅、一鉢に千家の飯をいただき、供に応ずるというこの世で最も低い姿勢の修業をするつもりだったのである。とかく酒によって心が濁り、生活が乱れ易い彼は「何のための出家ぞ」「山頭火よ、焼酎だけは止めよ」と自分を叱りつづけている》(『漂泊の俳人山頭火の手記』昭和43年潮文社)山頭火をして、一介の乞食坊主として生きさせる転機となった事件がある。大正13年、42歳のとき。多くの山頭火本の年譜では、概略次のように記している。

 

◇某日、酒に酔いて熊本市公会堂前にて進行中の電車の直前に仁王立ちす。急停車にて事無きを得。その時木庭某傍らより現れ市内報恩寺(千体仏)望月義庵和尚へ連行す。以後寺に住み込みて参禅す(前記・大山『漂泊の俳人―』)
◇12月、泥酔し、熊本市公会堂前で電車の前に立ちはだかる。電車の停止で大騒ぎとなるが、市内東坪井町の曹洞宗報恩寺に連行され、これを機に禅門に入る(村上護著『山頭火、飄々』平成12年二玄社)

 

 ほとんど定説化しているこの事件だが、いまなお不明な点もある。まず日時が特定されていない、そして、なぜこんなことをしたのか、木庭とはどういう人物なのか―などである。多くの山頭火研究者や愛好家がこの「謎」に挑んできた。比較的最近では、平成13年4月25日付のNPO法人まつやま山頭火倶楽部「まつやま山頭火の会」のホームページに「山頭火の?熊本市電妨害事件のこと」(高村昌雄)という文章が掲載されている。
  この文章は、当時の「九州日日新聞」(現熊本日日新聞)のマイクロフィルムを調べ、大正13年12月24日付の紙面で、九州学院生が轢死したのが同市電での最初の死亡事故であったという記事を発見した労作だが、当時の新聞に山頭火の〝仁王立ち〟事件の記事は見当たらなかったという。タイトルを「山頭火の?」としているのは、そうした所以であろう。その他の疑問点についても、高村のこの文章は詳細な調査に基づく考察を加えている。関心のある方は上記ホームページを閲覧されたい。
  念のため、筆者も熊本市役所歴史文書資料室に保管されているマイクロフィルムの同記事コピーを、係員の協力を得て取り寄せ、確認してみた。それによれば、事故が起きたのは12月22日午後4時30分ごろで、場所は「宮地線ガードから約一町を隔てたる個所」とあり、死んだ九州学院生も特定されている。山頭火の事件と混同されることはあり得ない。

■現場の熊本市公会堂前
  本稿の目的は、山頭火の〝仁王立ち〟事件を当時の地図上で検討することである。大正13年当時、山頭火は熊本市内下通町で戸籍の上では離婚した妻、咲野(サキノ)が営む額縁店(現在のブロマイド店のようなもの)「雅楽多」を住まいとしながら、地元の句友(荻原井泉水主宰『層雲』の同人)たちなどの友情と援助にすがって酒に明け暮れる自堕落な日々を送っていた。咲野との間には明治43年生まれの一子、健がいた。井泉水には明治44年から師事し、『層雲』投稿の常連として注目されていたが、この当時、精神は荒れ果て、句作できる状態ではなかったという。こうした中で、事件は起きた。
  図1は大正15年測図の旧版地形図2万5000分の1「熊本」図幅(部分)である。熊本市交通局のホームページによると、市電は大正13年8月1日に熊本駅前―浄行寺町間の幹線4.7㌔と、その途中の水道町から水前寺へ伸びる2.2キロが開通したのが最初である。事件は開通から間もなくして起きたことになる。
  その事件現場に直面した熊本市公会堂は、大正4年、県によって現在の熊本市民会館(愛称「市民会館崇城大学ホール」)がある場所に建設された。ただし、図2に見るように、市電の路線は現在は事件現場を通っていない。
  改めて図1ならびに昭和32年測図1万分の1地形図(図3)によって、事件現場の様子を見てみよう。事件現場を通る市電の路線を、熊本駅側からたどってみる。熊本駅前を出発した市電は春日町を北東方向に向かい、呉服町を直角に右折。長六橋のたもとを左折して、さらに北上すると、やがて坪井川に架かる行幸橋の手前で大きく右にカーブする。現在の熊本市民会館の位置からすると、公会堂はこのカーブに面して左側に立っていた。ここから電車は車窓の左に坪井川を眺めながらしばらく走って熊本市役所前に至る。市役所の角を右折して郵便局前を抜け、水道町で直角に左折して北上するのが幹線(浄行寺町方面)、そのまま直進すると水前寺方面であった。ちなみに開業からしばらくの間、市役所前から現在の慶徳校前(当時は古川町)の間は仮線として運行されていたのだという。昭和3年3月、花畑町―市役所前間、翌4年6月に古川町―花畑町間が現在の路線に変更。さらに昭和47年7月には水道町―浄行寺町間が廃止された。

■定説化の根拠
  それにしても、そもそも日時すらはっきりしないこの話が〝事件〟として定説化するには、相応の根拠があるはずである。昭和47年に刊行された『定本山頭火全集第三巻』(春陽堂書店)の大山による「解説」の中に、以下のような記述がある。要約しながら再録する。
  昭和26年11月12日、熊本日日新聞主催の「山頭火を語る座談会」が開かれた。出席者は荒木誠之、宮本謙吉、森本忠八、西本清樹、吉村光二郎の諸氏など十数人。話がたけなわになった時、吉村が言った。
  《「大正十三年に違いないが、月日ははっきり憶えていない。もう寒くなっていたが年末ではなかった。ある日、酔っぱらい山頭火が公会堂の前で大手をひろげて進行してくる電車の前に立ち塞って、電車を止めた。大騒ぎとなって警官もやって来た。その時、元熊本日日の記者をしていた木庭という老人が、警官に何か耳うちしていたが、山頭火をひっぱるようにして、同じ電車通りの東外坪井町報恩寺(俗称千体仏)へ連れて行った。そして、望月義庵に迷える山頭火を預けたのだ」》
  昭和26年11月といえば、山頭火没して11年。その名を知る人はまだ少なかったはずだが、熊本ではすでに新聞の文化企画に取り上げられる存在だったことがうかがえる。そのために、この話が紙面や出席者の口を介して広まっていったのではないかと考えられる。ともあれ、吉村のこの発言の中に「自殺」の文字はない。この話を大山は昭和32年刊の前記『俳人山頭火の生涯』では、次のように紹介している。
  《大正十三年のある日、酔払った山頭火は熊本公会堂前を進行中の電車の前に仁王立ちした。急停車で事無きを得たが、車内の乗客は皆ひっくり返った。この騒ぎに、大勢の人が寄ってたかった。自殺しようとしたのか、或いは酔狂かそこは謎であるが、弟二郎もそれよりさき自殺している。やがて警察も来て、人山でかこまれた。その時、木庭という男が現れて、山頭火の腕をとらえ、「こっちへ来い」と言いながらぐんぐん電車道を引張って俗にいう千体仏、つまり報恩寺という禅寺へ連れて行った》
  ここで大山の記述の中に「自殺」の2文字が出てくるが、断定はしていない。ところが、昭和55年に出した『山頭火の道』(彌生選書)でこの座談会について触れた部分では、次のように「自殺」を断定している。
  《秋の雨の降る中を、川尻の宮本謙吉、『日本談義』主催の荒木精之、作家の森本忠八、歌人の西本清樹、吉村光二郎の諸氏はじめ十数人集って下さる》《吉村さんや山頭火夫人のいわれるには、ある晩、酔払った山頭火は、公会堂の前で一人大手をひろげて電車の前に立ち塞がって、自殺しようとした。電車の急停車で事なきを得た。群衆の中から木庭という老居士が出て来て、その山頭火を千体仏につれていって参禅させた。それが禅門をくぐる第一歩であった》
  大山は『山頭火の道』では、座談会が開催されたのは昭和26年ではなく「24年11月12日」としている(『――生涯』では26年)。どちらかが記憶違いであろう。いずれにしても、このような大山の記述が多くの研究者や愛好家たちの引用ないし参考にするところとなり、定説化につながっていったのではなかろうか。

■疑問符がつく自殺未遂説
  山頭火はどのようにして、電車に立ちふさがったのであろうか。これにも「仁王立ち」のほかに「線路に寝ころんだ」「大の字に寝そべった」「立ちはだかって奇声を発した」など諸説ある。おそらくさまざまな人が、それぞれに目撃談や噂ばなしを集めた結果であろう。とりあえず旧版地図(図1)に戻る。市電の線路は熊本市公会堂の前で、約120度の角度でカーブしており、このカーブに差しかかったところで電車は減速するはずだ。山頭火が立ちふさがった電車が上り・下りのいずれであったかは吉村光二郎その他の話では不明だが、前記・高村は「市役所前を発車した市電が熊本市公会堂の前に差しかかった時」としている。この電車がカーブを曲がり切れば、すぐに公会堂前停留所である。つまり山頭火は、そのカーブに差しかかってスピードを落とした電車の前に飛び出したと思われる。
  何のために?
  自殺を図ったという説は、もともと山頭火の中に自殺願望があったことを拠り所としているようだ。山頭火の自殺願望は友人たちの間ではかなりよく知られていたようで、その一人、師範の学生だった緒方晨也はその随筆集『余燼』で、山頭火のこんな言葉を紹介している。
  《「私もつまりは自殺するでせうよ。母が未だ若くして父の不行跡に対して、家の井戸に身を投げて抵抗し、たった一人の弟がこれまた人生苦に堪へ切れず、山で人知れぬ自殺を遂げてゐるから」》(村上護『山頭火の手紙』平成9年大修館書店)
  また、俳人の上田都史は《熊本で起した市電の事件は、単なる酔っ払いの所業ではなかったと思われる。進行して来る電車の前に仁王立ちになった山頭火に、みずからを問い詰めざるを得なかった惑乱と寂寥を感ぜずにはいられない》(『山頭火の秀句』平成6年潮文社)と書いている。このように、もともと身の内に自殺願望を抱え、かつ自堕落な生活から自己嫌悪に陥って精神的に追い詰められていた山頭火が、衝動的か否かはともかく、自殺を図ろうとしたと見る研究にはそれなりの説得力がある。
  実際、後年の「其中庵」時代には睡眠薬「カルモチン」を大量に飲んで自殺を図ったが未遂に終わったことを、彼自身が友人たちに告白している(ちなみに太宰治も「カルモチン」を使った自殺未遂事件を起こしている)。半面、旧版地図をよくよく眺めていると、電車に飛び込み自殺しようという男が、わざわざスピードを緩めた電車の前に大手をひろげて立ちふさがるだろうか、という疑問が浮かんでくるのも、また否定し難い。本気で死ぬつもりなら、むしろ直線でスピードの出ている電車の前に飛び込むほうが自然ではないだろうか。
■「木庭」という男と報恩寺
  事件後、山頭火は「木庭」という男に引っ立てられるように曹洞宗報恩禅寺に連れて行かれたとされている。 旧版地図を見ると、熊本市公会堂前から市電の一方の終点、浄行寺町停留所までは線路沿いに約2㌔。浄行寺は浄土真宗本願寺派の寺。報恩寺はこの地図上では確認できないが、現在の所番地でいえば、浄行寺は中央区坪井3丁目10-18、報恩寺は同3丁目8-43で、言うなれば隣組である。一方、当時の山頭火が住んでいた、咲野が営む「雅楽多」がある下通町(1丁目119番地)は市役所の裏手に当たる熊本市の中心街で、公会堂とはいわば目と鼻の先である。
  なぜ、「木庭」は「雅楽多」ではなく、熊本市内に数ある寺の中から禅宗の一派である曹洞宗の報恩寺を目がけて、泥酔した山頭火を引き立てて行ったのであろうか。ちなみに当時、線路が敷設されていた道路の幅は10間ないし12間、つまり12㍍ないし14㍍ほどであった(熊本市交通局「市電の歴史」)。山頭火が「木庭」に引っ立てられるように連れて行かれたとすれば、2人はこの道をもつれ合うように歩いて行ったのであろうが、それは想像の域を出ない。「木庭」が誰であったかについても諸説あり、決着はついていない。しかし、「なぜ報恩寺へ?」と考えると、同寺に何らかのゆかりのある人物と考えるのが自然であろう。
  山口市役所に長く勤務し、詩人で、山頭火と交友があった和田健(平成25年没)は、その著『山頭火よもやま話』(平成13年山頭火ふるさと会)で、熊本県人吉市在住の水墨画家で山頭火研究家の坂本福治からもらった次のような便りを紹介している。
  《「市電を停めた山頭火を報恩寺へ連れて行った木庭という人物は、新聞記者だったというのが通説になっておりますが、これは誤りで…熊本では有名な壺溪塾という大学予備校の創設者でした」》
  そして、『壺溪塾60周年記念誌』の中の「木庭徳治先生小伝」にある以下の記述を合わせて紹介している。
  《「大正十三年といえば熊本市電の開通の年に当たる。或る酔っ払いが市公会堂前で突然市電に立ちはだかり、市電をとめて寝ころぶという珍事がもちあがる。幸い事なきを得たが、その酔っ払いの始末に閉口しているとき、偶然通り合わせたのが木庭先生で、何と思われたか彼をつれて東外坪井町(現坪井一丁目)の報恩寺に連行」云々》
  木庭徳冶は熊本の名門、鎮西中学校時代から禅の修行に励み、壺溪塾の教育にも創立以来、禅の精神を取り入れた。この精神は現在の壺溪塾に連綿と受け継がれている。事件当時は51歳で、報恩寺の住職、望月義庵と知己の間柄であったという。前記「――妨害事件のこと」で高村も、「壺渓塾」の木庭徳治に注目している。
  それはともかく、この「小伝」でもう一つ注目すべきなのは、山頭火が「市電をとめて寝ころぶという珍事」としているところである。つまり彼は電車が急停車したところで、その前に横になったのだろう。この文章にも「自殺」の文字はない。
  山頭火の酒癖については本人が、ほろほろに始まり、ふらふら、ぐでぐでと進んで、ごろごろ、ぼろぼろ、そして最後はどろどろになると表現している。 つまり、どろどろに酔った山頭火が酔っぱらい特有の妄想に駆られ、線路に飛び出して、あるいは奇声を発したと考えるのが自然のような気がする。ともあれ「木庭」が連れてきた山頭火を望月義庵は黙って受け入れた。山頭火自身にも禅への関心はあったようだ。咲野との縁談が持ち込まれたときには、《自分は禅坊主になるのだから、嫁はいらぬと言って拒み、見合さえろくろくしなかった》(大山『俳人山頭火の生涯』)。熊本では当時《盛んに禅風を興していた沢木興道老師の会に、時々参じたことはあった》(同書)
山頭火の禅家での生活が始まる。
  そのころの山頭火の様子を前記『定本山頭火全集第三巻』の解説で大山は、咲野の話としてこう記している。
  《「あの時、何日も家に戻りません。それはよくあることなので気にもせずにいました。しかし、人のうわさによると、なんでも千体仏で和尚さんの弟子になっちょるとかいうことなので、年の暮れも迫っているし、寒いであろうと思って綿入れの着物を持って行ってみました。そうしますとのんた、寒い朝、素足でお尻を立てて本堂の掃除をしちょるではありませんか。両足の踵には垢切れが出来ていました。自分の寝床さえ一度もあげたことのない人が、変り果てていました。望月さんにきくと、お経も読み、夜は坐禅もくむとか、妾(わたし)は和尚さんにお任せして帰りました》
  翌大正14年2月、山頭火は義庵を導師として出家得度し、「耕畝」(こうほ)と名付けられる(のち戸籍も正一から改名)。立会人は句友の友枝寥平だった。ここで一つ、異説を紹介しておこう。
  俳人の古川敬は、その著『山頭火の恋』(平成21年現代書館)で〝自殺未遂〟を前提に、こう書いている。
  《出家という自分の人生にとっての一大事が、まるで猫が首を掴まれるように寺に放り込まれ、そこに住みついてしまった結果、などということは、自意識の強い山頭火には耐えられないことではないだろうか》
  《死のうとして死に切れない自分を責める山頭火は、自分を市電の事件から救ってくれた木庭徳治から報恩寺住職望月義庵の話を聞き、自らの拳で、寺の門を叩いたのではないだろうか》

■味取観音堂
  現在、熊本市内から一路、山鹿市目指して北上する国道3号線が九州自動車道と交差する手前、平尾山(標高215.7㍍)の麓に曹洞宗の味取観音堂瑞泉寺=熊本市北区植木町味取(みとり)=はある。望月義庵に促されて、山頭火が井戸もないこの観音堂の堂守となったのは大正14年3月5日であった。この頃、師の荻原井泉水に宛てた便りにはこうある。
  《私は今月の五日にこの草庵をあづかることになりまして急に入山いたしました。片山里の独りずまゐは、さびしいといへばさびしく、しづかといへばしづかであります、日々の糧は文字通りの托鉢に出て頂戴いたします。村の人々がたいへん深切にして下さいますので、それに報ゆべくいろいろの仕事を考へてをります、私も二十年間彷徨して、やっと常乞食の道、私自身の道、そして最初で最後の道に入つたやうに思ひます、お大切に》
  また、『層雲』の同人、木村緑平に宛てた大正14年3月20日付のはがきには《ここへお出になるには省線植木駅乗換、鹿本線山本橋駅下車、十丁ばかり、又植木駅から山鹿通ひの自動車で一里ばかり、御来遊をお待ちしてをります、御来訪の節は前以て御通知を願ひます、私は晴天ならば毎日托鉢に出ます、また出熊することもありますから、――》とある。緑平(本名・好栄)は山頭火が没するまで物心両面で支え続けた福岡県糸田の炭坑医である。

しかし、大正15年4月10日、山頭火はこの味取観音堂を後にする。
  《あはたゞしい春、それよりもあはたゞしく私は味取をひきあげました》(4月14日緑平宛はがき)

 分け入つても分け入つても青い山

 いまも多くの人の口に膾炙(かいしゃ)されているこの句には、次のような前書がついている。
  《大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た》
  死ぬまで続く常乞食の道の始まりであった。

■結び
  平成26年の初夏のころ、私は神田神保町の古本屋の100円コーナーで大山澄太編『漂泊の俳人山頭火の手記』をみつけ、買い求めた。かつての同僚に熱烈な山頭火ファンがいたことを思い出したからである。私自身はそれまで山頭火関連の本を読んだことはなかったが、読み進めるうちに彼の山頭火への思い入れが理解できるような気がしてきた。以来、『山頭火』とタイトルのついた書籍が目に留まるごとに買い求め、読み進めているうちに、私の脳裏に一つのアイデアが点滅し始めた。
  「山頭火の旅の足跡を、その時代の旧版地図に落とし込んだら、何か新たな山頭火像が見えてこないだろうか―」
  この小文は、そんな思いを抱きながら熊本市中心街の旧版地図を眺めているときに、ふと抱いた小さな疑問―こんな場所で山頭火は本当に自殺しようとしたのだろうか?―に自分なりの答えを出してみようと試みたものである。山頭火に関する研究書や論文、随筆などのいわゆる山頭火本は数え切れないほど膨大であり、このような試みは、あるいは無謀のそしりを免れないかも知れないが、「文学」の世界に「地図」を持ち込むと、どのような「化学反応」が起きるか。今後も機会があれば試してみたいと思う。

          *             *

 一笠一杖、一鉢を手に味取をあとにした山頭火。その旅の途上で作る俳句は《荻原井泉水師の『層雲』誌上に異彩を放ち、出家前の作とはまるで別人のように、私たちの注目をひくのであった》(大山『山頭火の道』)
  以降、山頭火の旅は九州一円から山陽、山陰、四国、京都、名古屋、信州、関東、東北に至り、平泉の中尊寺、越前永平寺にも足跡を記している。 
  平成27年10月10日は山頭火没して満75年に当たる。
                                                                 

(平成27年3月10日記)


  ※本文中の敬称は略させていただいた。また、本文中にその都度表示した主要参考文献のほかに、村上護編『山頭火文庫』全5巻=春陽堂書店=を参考にした。

■〝事件〟までの山頭火の足跡■
明治15年,山口県西佐波令村(現防府市)の大地主の家に生まれる。10歳のとき、母が自殺し、36歳のときには弟も自殺。早稲田大学文学科中退。27歳で結婚。大正2年、31歳で荻原井泉水に師事し、自由律俳句を作り始める。大正5年、種田家が破産し、妻子を連れて熊本へ。大正8年、単身上京したが、神経衰弱となり、大正12年には関東大震災にも遭って、熊本へ戻る。翌13年、本文の熊本市電前〝仁王立ち〟事件を起こす。

 

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